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社員ブログ
七月五日が来ると思い出す
2026-07-17
カテゴリ:社員の日常
髙橋良知(代表)
七月五日が来ると、私は思い出す。
クローゼットの奥で眠る非常食の山が、去年の今ごろの私を、静かに責めてくるからだ。
きっかけはYouTubeだった。
「二〇二五年七月五日、日本に未曽有の大津波が来る」。
スマホでもテレビでも、その話ばかりが流れてきた。長老が口にした、という。大国の艦隊が消える、という。
語尾はぜんぶ「という」。確かなものは何ひとつないのに、不確かな話も四つ並ぶと、人はそれを動かぬ証拠のように感じてしまう。
観れば観るほど、画面の向こうの仕組みが、私好みの不安を盛りつけてくる。気づけば世界は「七月五日」一色だった。
私は備蓄に走り、四匹の猫のために猫砂まで箱買いし、妻まで巻き込んで「絶対に来る」と説いてまわった。
念のため申し上げる。七月五日、何も起きなかった。
恥ずべきは、備えたことではない。
出どころの知れない「らしい」に背中を押され、自分の頭で一度も考えなかったことだ。
長老が言うらしいから。みんなが備えるらしいから。判断を、顔の見えない仕組みに丸ごと外注していた。
あの夏、ただ自分の足の裏が感じる猫砂の具合だけを信じて、いつもどおり生きていた者がいた。
四匹の猫である。
もっとも、いちばん臆病なオスのイチときたら、宅配のチャイム一つで、この世の終わりのごとく逃げ込む。
だが——未知の音にまず本気でビビるイチと、未知の噂をうのみにして淡々と箱買いした私と、原始のセンサーをまっとうに使っていたのは、どちらか。
その賢者はいまも、私が敷きすぎた猫砂に足を取られ、迷惑そうにこちらを見上げる。
デマの本当の怖さは、信じた本人より、巻き込まれた周りの足を取ることにある。
次に画面が「来る」と囁いたら、まず足元の猫の顔を見よう。何かを信じる前に、いっぺん画面を閉じて、自分の足で立ち止まる。
その当たり前を、わが家のいちばん小さな四匹の賢者が、毎日ただで教えてくれているのだから。




